学長室の窓

学長コラム:自分を愛していますか?

コラム No.3

自分を愛していますか?
もし自分を愛しているならば、
誰よりも自分を大切にするものです。

原始仏典『ダンマパダ』より

ときに世間は仏教を誤解しているのではないかと思うことがある。例えば「自分を愛するということ」について、現代人はどう考えているのだろうか。まさか修行僧の厳しい日々の姿をイメージして、仏教は「自分を愛してはならない」と教える宗教と思い込んではいないだろうか。もちろん答えは、否(ノー)である。

端的に申せば、そもそも仏教は「自己をもっとも愛すべき存在」と考えるところから議論を始めるものである。この視点を欠いたままでは、仏典を理解することは困難となるだろう。なぜなら人間観察の探求には、まずは自分を大切に思うことが原点であり、また当然のことながら、人はおのれの人生を歩む他はないからである。
にもかかわらず人はなぜ自己愛について、身勝手でネガティブなイメージを抱くことがあるのだろう。とりわけ連帯感や協調性を重んじる日本人にとっては、なおさらである。歴史的にも「滅私奉公(めっしほうこう)」(私欲を捨てておおやけのために尽くすこと)などが標榜されてきた日本においては、そこに何らかの要因が推測されるが、今はそれらを論じるつもりはない。だがしかし、「無我」や「空」、「忘己(もうこ)」といった用語によって語られる仏教が、それと同程度に扱われることには疑問を呈しなければならない。

自己を愛おしいと知る者ならば、その自己をしっかりと守りなさい。
あたかも家主が夜を徹して注意を払っているように、賢者は[しっかりと自己に目覚めているものだ]。
『ダンマパダ』157偈

ゴータマ?ブッダの教えとは、かくも人間の人格形成を完成させる道を説くものである。その道を離れることは決してなく、人はどうしても自分自身を愛せずにはいられない存在と看破(かんぱ)する。仮に人が自己愛を放棄したかのように振舞っていても、突き詰めればどこかで自己を愛していることを誤魔化しているか、美化された言葉に溺れているに過ぎないことを自覚しなければならない。ゆえに自己を愛する者ならば、愛するからこそ自己を大切に思うのであり、そこからブッダは人を理性的な覚醒の道へと誘うのである。
かくして仏教では、欲望の徒は自己否定の始まりであるという落とし穴に気づかぬ者たちに向かって、自己愛を通した慈悲の源泉を開示する。やがてはそれが利他行へと続く道になると信じて……。

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