学長室の窓

学長法話:365体育投注_365体育备用网址-【唯一授权牌照】@六年度両祖忌

2024年10月9日に行われた、365体育投注_365体育备用网址-【唯一授权牌照】@六年度両祖忌法要の際の学長法話です。

みなさん、行事のご随喜まことにご苦労様でした。ここで一言、両祖忌の法話を申し上げます。

私ども東北福祉大学の建学の精神の源である曹洞宗では、仏教の開祖「釈迦牟尼仏世尊」をご本尊と仰ぎ、そのお釈迦さまのおさとりの心、み教えを正しくお伝えになられた道元禅師さまと、親しくおひろめになられた瑩山禅師さまを「両祖さま」として、「一仏両祖」とお呼び申し上げ、人生の導師として礼拝いたし、敬慕申し上げております。

したがいまして、先ほどの主任の萩野先生による冒頭の説明の通り、わが宗門では、9月29日を「両祖忌」とお呼びして同じようにご供養申し上げております。

道元禅師様は「建長5年」1253年の8月28日に御年54歳にて、
瑩山禅師様は「正中2年」1325年 8月15日に御年62歳にて、

それぞれご生涯を閉じられました。

かくしてご遷化の日付けは違うのですが、明治の改暦の結果、ちょうど同じ9月29日が両祖さまのご供養日となったという次第です。

とりわけ瑩山禅師さまにおかれましては、お亡くなりになられてちょうど本年が七百回忌の大きな節目でありました。去る四月六日には、大本山総持寺におきまして、七百回大遠忌行事として、本学園理事長の平井正道老師を焼香大導師に、学生と教職員の皆さんのご参加、ご随喜のもと、大法要を相勤めてまいりました。誠にかけがえのないご法縁であり、有難い稀縁でありました。

私たちの一生は一度きり、今日一日も一度きりであります。こうした尊いご縁を大切に悔いのない日々を送りたいものです。

そこで本日は、一仏両祖を貫くもとも尊い教え、「無常」ということについて考えてみたいと存じます。

いたずらに 過ごす月日は多けれど 道をもとむる 時ぞすくなき

道元禅師の『傘松道詠』にある和歌です。何もしないまま過ぎて行ってしまう月日は多いでしょうけれど、こころざしの道を求めて精進努力する時間はなんと少ないことであろうか——

このように道元禅師は、過ぎゆく時の流れの中で、迷いや煩悩を抱えた我々にとって、いつも真剣になっていられること、目指すべき道を歩むことの難しさを詠んでいます。  しかし、よくよく考えてみますと、道元禅師は幼少の頃に出家され、そして54才でお亡くなりになるまで、まさに厳しい修行を重ね続け、真の仏道をひたすら求め続けた人生であったわけです。私どもからみますと、いたずらに過ごした月日などは決してなく、常に道を求めていらっしゃったわけで、詠まれた歌とは全く逆と言っていいはずです。

しかし、そのような心がけの道元禅師であるからこそ、ほんの僅かに「いたずらな」時間であっても、心の中では時を惜しまれて只管に打坐されていらっしゃったのではないかと拝察するのです。

ところで、道元禅師の『正法眼蔵随聞記』巻一第七節には、このようなやりとりがあったことを思い出します。

ある日、道元禅師のもとへ修行僧が訪れて質問しました。

「私は長年修行に専念してきましたが、一向に悟りの気配がありません。決して自分が愚かだとは卑下しませんが、これはどうしたわけでしょうか?」

この問いに対する禅師の答えは明快でした。

「そう、その通りだ。どんな人間も自分を卑下してはならない。仏道を学ぶためには、知恵も学才も聡明さもいらないのだからね。とはいえ、何も学ばなくていいということではない。真実の志をおこして、正しい師のもとに全力で学ぼうとの決意があれば、悟りを得ないということは決してないはずである。」

これに、なるほどと思ったその修行僧。ですが、しかし志をおこすということは言に易しく、その実、どうすればよいのでしょう。その問いに対する答えはこうでした。

進怠の不同は志しの至ると至らざるとなり。

志しの至らざることは無常を思はざる故なり。

「志をおこすことは、切実に世間が無常であることを思うべきである」

つまり、絶えず流れゆく世の姿を切迫して受けとめよ、というのです。また、ここが大事なところですが、道元禅師はやさしくこうお話しになっています。

「人間が学ぶということに、優劣といった考え方はない。ただ怠けているか、努力しているかの違いによって、道を得るのに速いか遅いかがあるだけである」

では怠けているか努力しているかの違いは、どこからくるのでしょうか?それは「志をおこして徹底するかどうかにかかっている」というのです。

では志を徹底しているか否かの違いは、どこからくるのでしょうか?そこで、「世の無常を切実に思うか否かにかかっているのだよ」ということだったのです。

人間は刻一刻と死に向かっている存在です。それゆえ、明日にも一生は終わるかも知れぬ、いや、今晩死ぬかも知れないと感じて、とんでもない気持ちになって、ひたむきに励んで志をおこせば、悟りを得ないということは決してないはずだ」と道元禅師は示されたのでした。

人間の死の問題は、他人事ではなく自分事です。それゆえ仏の教えでは、行動の自覚を促すためにも世の無常を切実に説くのです。なぜならこの世は時が流れているのではなく、人の心がうつろい流れゆくものだからです。時の流れは迅速にして、歳月は人を待っていてはくれません。木版を打ち鳴らしながら、いつもそうした諸行無常の教えを深く受け止めていただければ幸いです。

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