仏教専修科
活動記録:365体育投注_365体育备用网址-【唯一授权牌照】@六年度仏教専修科開講式
活動概要
四月十日、仏教専修科開講式が本学法堂にて行われました。
殿鐘三会七下鐘で導師の千葉学長が上殿し、その後、拈香法語、普同三拝、献湯菓茶と進み、全員で般若心経を誦しました。回向、ふたたび普同三拝の後、学長の訓示が行われました。訓示では『随聞記』の一節が引用され、学道における「志」の大切さが説かれました。
式の後、場所を移して学生?教員の自己紹介と講義の日程調整を行いました。これをもって仏教専修科の本年度の活動が始まりました。
学長訓示
皆様こんにちは。只今は厳粛のうちに仏教専修科開講式をお勤めいただきました。ご苦労様でございました。年の初めに私よりご挨拶申し上げます。まずは、どうぞ脚のほう、お経も終わりましたから崩していただいて結構です。ご楽にお願いします。
改めて、新年度もどうぞよろしくお願いいたします。さて、学生の皆様に、特に新しくお入り頂いた方にお伝えしたいのですが、仏教専修科は大学の授業でございますので、修行ではございません。ですから、修行に至る前の — もちろん厳粛さはございますけど — どうぞ、お気持ちは仏教を学ぶこと、禅を学ぶことの楽しさを、まずは目指して頂きたい、そう思うわけでございます。仏教語でも、お釈迦様の午後の坐禅のことを「娯楽」と翻訳いたします。今では娯楽というとレクリエーションのことを言いますが、もともとはこれ仏教語。お釈迦様が心楽しく午後のひと時を坐禅あそばされた、そのことを「娯楽」と翻訳したのが、その言葉の始まりです。したがって、今では使い方のニュアンスが若干異なっておりますけれども、その「心楽しく学ぶ」ということは、今にも通じているひとつの言葉なのかなというふうに思います。そもそもご修行に行きますとですね、修行を司る指導役のひとりに、「悦事」とか「副悦」とかいった役職があります。「えつじ」の「えつ」は「法悦」の「悦」、つまり、「教えを悦ぶ、楽しむ」という意味であります。もちろん、普通の勉強にも苦しいことや厳しいことはありますけれど、しかし、仏教を学ばれるということ、そして禅の道を体験されるということは、実はさまざまなことがわかって、見えてくるものでありまして、それはそれは他のことには代え難い喜びが必ずあります。そして、先日諸先生にも引率いただきましたが、また学生の皆様にも多く参加いただきました、本年は瑩山禅師様の七百回大遠忌と言われる節目の年であります。平井理事長老師の下、焼香師を御山でお勤めして参りました。その時にも様々な思い出や出会いがあったものと思いますが、専修科を出て、仮に御山に進んでいただくような方があれば、おそらくは大変心強い先輩方が、仏教専修科に多く卒業生がいらっしゃいます。私も、全国色々な所でお勤めをすることがあるのですが、「私は東北福祉大学の仏教専修科の出身です」と仰っていただける方が大変たくさんいらっしゃいます。ですから、皆様が将来さまざまな場面で出会うことになろう卒業生の先輩方にも、ご法縁が結ばれているというのがこの仏教専修科。寺族様になられることが将来あったとしても、そこでも必ずやどこかで「仏教専修科の出身です」という方が多く出会うことがおありだと思っております。それは何にも代えがたい心強い励ましとなって皆様をお支えしてくれるものと思っております。
それにしましても、この春を迎えて、外は麗しい桜の花で満開であります。昨夜は花散らしの雨が降りましたけれども、そんな時に思い出すのが — これは親鸞上人の歌と承っておりますが — 「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」。「明日、桜を楽しもう」と思っても、その前の夜のうちに花は散ってしまうこともあるものでございます。私たちは、この移り変わり、物事が慌ただしく変化していく諸行無常の世の中を生きているわけであります。うっかりすると人間の方が、人の心の方が置き去りにされてしまって、世の中の正しい姿を見過ごしてしまうことが多くあるのかもしれません。
かつて、道元禅師にまつわるこんな逸話が、『随聞記』(六?九)にございました。道元禅師のもとへ、ひとりの修行僧が質問にやってきました。何を問われたかというと、その方、それなりに結構修行の年限を重ねた方であったようでありますが、一向にさとりの気配がなかったようであります。「一向にいまださとることがないというのは、果たしてどういうわけでしょうか。私には見込みがないのでしょうか」と、自分に自信をなくして、道元禅師様に質問にきたわけです。すると、その問いに対して道元禅師様はこう答えられました。「高才を用い、聡明によらず、ただ志の至ると至らざるとによる」というお答えでございました。易しく申せば、仏の道を学ぶということは「高才を用いず」 — 才能があるかないかではない — 「聡明によらず」 — 賢いかどうかということはまったく関係のないことだ — 「ただ志の至ると至らざるとによる」とお示しだったということです。志がその人の胸にあるかどうか、それを持っているかどうかによるということであったのであります。そして、言葉がこうつながっていきます。「真実の志をおこして、随分に参学する人、得ずというところ無きなり」、つまり、本当の志を胸に秘めていたら、決して道を得ないということは、自分の目標を達成しないということはない、誰もがみな道を得ることができるのだという、心強い言葉でありました。
この「道において志を起こす」ということを別の言葉で「発心」とか「発菩提心」とも申します。そして道元禅師は「発心なるとき、この道はすでに成ったにひとしい」ともお示しになられております。つまり、志をもつということができたなら、それはすでに道を成し遂げたのと同じくらい大事なことなのだということなのです。「真実の心を起こした者、かならず得道する」というのは、そのことを仰っているのであります。ところが、この質問にきた修行僧、ここでさらに疑問が残りました。「『志をもつ』というのは、言うのは簡単だけれども、実際のところどうすれば志を自分のものとすることができるのでしょうか」と、さらに質問したのです。すると、道元禅師様の答えはこうでした。「志を起こすということは、切に世間の無常を思うべきなり」。易しく言えば、志をもつということは、実は「切実に世の中の無常というものを感じ、受け止めることができているかどうか」ということなのであります。もっとひらたく言えば、「今を生きているという実感を切実に自分で受け止めていることができるかにかかっている」ということになります。ですから、才能があるとかないとか、聡明な智慧があるかどうかということはまったく関係なく、むしろ、志をもっているかどうか、世の中を切実に無常として受け止めているかどうか、これが「至っているかいないか」の違いなのだというお示しであります。
人は出会い、そしてやがて別れが来ます。一日も同じです。朝起きて、必ず夜はやってきます。そして、夜を迎えたら必ず夜明けがやって参ります。一日一日を、「今、生きている」という、「今の私」というものに、本当の意味で気づいていただきたいのです。ですから、桜花を見る時にいつも思うのであります。「ああ、一年のうちでも、今しか桜は咲かないのだ」と。しかも、長く咲き誇るようでほんの数日間。でも桜は懸命にその時を生きています。やがては散ってしまう桜、でも、精一杯咲いたというその美しさは、私たちに、深く心に何かを教えてくれるのであります。
貴い学生時代の一日一日です。どうぞ愛おしむようにその日を過ごしていただきたいと思いますし、また、そうしてであった仏教専修科の仲間、東北福祉大学で出会ったお仲間、すべての人と今を楽しんで、学んでいただければ、これ幸いであります。以上、私からの今日のお話しでありました。本年度もよろしくお願いいたします。