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VOL.22 SEPTEMBER 2004

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【現場から現場へ】

[OB MESSAGE] こんにちは MSWです

済生会新潟第二病院 地域医療部副部長
中村 昌広

◆恩師との出会い

 大学2年生の夏,先輩が兵庫医科大学の医療相談室?中島さつき先生のところでMSWの実習をすると聞いて,「なんだそりゃあ?」と思った。先輩とは宴会真っ只中だったので,隣でスリスリして聞いてみると,Medical Social Work(医療ソーシャルワーク)の略だとわかった。昭和40年代後半,高度経済成長期の終盤ではあったが,福祉というと暗いイメージで,何故か横文字がカッコ良かった。
 当時,福祉大でMSWを教えていたのが,仙台市立病院の医療ソーシャルワーカー足利量子先生(その後教授,社会福祉学科長,現在名誉教授)だった。先生は,植物状態の患者や家族への支援で,ソーシャルワーカーとしての枠を超えて日夜奔走していた。そして,宮城県方式と呼ばれる医療費助成制度ができた。先生の授業を聴講して,先生のお人柄に魅せられると共に,この分野は奥が深いと思った。
 それまでの私は,宮城県青年赤十字奉仕団という日本赤十字社のボランティアサークルに籍を置き,テスト期間以外は毎日のようにサークルの反省会と称して,トリスだレッドだと安酒(ウィスキー)に浸たり,福祉について,ボランティア活動について,そしてある時は異性について熱く語り合っていた(余談になるが,当時のメンバーが8月28日に「30年目の夏休み」を思い出の地仙台で共にした)。
 こんな学生生活だったが後輩に当時を聞かれると,決まって「真面目なマーちゃん……」と答えているが,先生との出会いが,私の人生を大きく変える転機となった。

◆MSWを志望して

 大学ではMSWを専門に学んだ。三越の裏にあった旧仙台市立病院の医療相談室によくお邪魔し,先生から指導を仰いだ。4年生の夏休み,新潟市内の病院6カ所で実習をさせていただいた。病院によって特色があること,ワーカーもいろいろな人がいることがわかった。その後,師と仰ぐワーカーにも出会い,順風満帆な船出が待っているかと思ったが,就職には苦労した。まだ我国では,MSWの認知はされていなかった。
 卒業後,民間病院に勤めたが,待遇面で将来に不安があった。それでも学会で発表したり,全国誌にMSW関係の原稿を頼まれ投稿したり,仕事は充実していた。楽しかった。そんな時,学生時代に実習で世話になった済生会新潟総合病院の先輩から声がかかり,済生会に就職できた。

◆済生会について

 明治44年2月11日,明治天皇は,時の総理大臣桂太郎を召されて「恵まれない人々のために施薬救療し 済生の道を弘めるように」との済生勅語に添えてお手元金150万円を下賜された。
 桂総理はこの御下賜金を基金として全国の官民から寄付金を募って同年5月30日済生会を創立した。以来今日まで93年,社会経済情勢の変化に伴い,存廃の窮地を乗り越えるなど幾多の変遷を経ながらも,済生会は創立の精神を引き継いで保健?医療?福祉の充実?発展に必要な諸事業に取り組んできた。
 戦後,昭和26年に公的医療機関の指定,同27年に社会福祉法人の認可を受け,現在,社会福祉法人済生会となっている。
 東京に本部,41都道府県に支部があり,病院?福祉施設など352施設を有し,職員数は全国で36,000人を配置している。
(月刊誌「済生」済生会小史より抜粋)

◆そして現在

 大正15年,済生会芝病院に社会部が設けられ,我国で初めてMSWが配置された。以来78年が経過し,済生会としてMSWの果たす役割は大きく,業務の強化?より一層の充実が望まれている。
 現在,当院では医療相談室?地域医療連携室?在宅介護支援センターで8人のMSWが活躍している。思えば,決して真面目な学生とは言えなかった私に,MSWに必要な学問は勿論のこと,MSWにとって最も大切な「感性」を指導して下さった足利先生には感謝している。
 このような意味合いからも,通信教育という厳しい状況下で学ばれている後輩の皆さんに,OBの一人としてエールを送ると共に,先生にはできなかったが,恩返しのつもりで応援したいと思う。

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